橋北之部
                書籍 (福井県の伝説より   昭和48年6/20発行)            東安居公民館
お角櫓のお化(城町)
福井藩三代目の殿様の頃であつた。戦もなく世はまことに太平であつたが、殿は松平家秘蔵の名刀は日頃片時も側を離されたことはなかつた。或日のことであつた、この名刀の姿が突然見えなくなつた。さあ大変殿には一方ならず心痛遊ばされて上を下への大騒動、城中隈なく探したがどうしても見当たらない。その中に日もとつぷり暮れて刻限が来たので家中の者も退出した。殿はがつかりされて、如何したものであらうと思召されながら寝所にお入りになつた。殿にはその夜はいつになく非常にうなせられ夢に名刀はお角櫓(すみやぐら)の一番上にあるといふ事をお知りになつた。
殿には翌朝早く家来の者を呼びよせられ、昨夜の夢の始終をお物語り遊ばされて、誰か其の刀を取つて来るものはないかと仰せられたが、皆は顔を見合せるだけで誰あつて行かうとするものがない。平常自慢しているものも今日は黙り込んで、中にはどこが痛くなつた、此処が痛むとか色々故障を言つているものもある。殿には少し御機嫌を損じていらせられた。と、この時下座の方に座つていた某がつと立つて、「其の儀は某におまかせ下さい」と、それをお受けしてひき下り直にお角櫓さして出かけた。
櫓は大阪の役以来使用されずにあつたので、中に入ると踟蛛の巣が引つかかり土くさい臭が鼻をつく。それを物ともせず彼の勇士は唯一人灯片手に勇気凛々として階段を上がり、今一足でで階上に達しようとしてふろ彼方を眺めると暗い暗い中に、白くボーツとした一人の官女が髪もおどろにふりみだし、刀を後にしてあちらを向いている様子。さすがの勇士もギョツとしたが、きつと気をひきしめて、そーつと刀を奪はうとしたその刹那、官女はこちらを向いて薄気味悪い笑をもらして勇士を睨みつけた。その恐ろしい見幕に勇士も刀を抜いたまま気絶してしまつた。
此方は待てども帰つて来ないので、殿にももどかしく思はれてもう一人の勇士を出すことにした。彼は静かに階段を上り盡して見ると幽霊が坐つている。この勇士は中々度胸の坐つた人で、つかつかとその側に行き、刀をひつたくり、幽霊がふり返つて睨み笑ふのを、にらみ返して意気揚々として戻つて来た。直に殿にお目通りして刀をお渡ししたが、一時に気が弛んだのかばつたりそれへ倒れてしまつた。家中の者が色々と手当をしたが、その甲斐もなく、死骸は妻子にお下げになつた。
大阪の役の時他の大名達が大阪城を攻めたが、容易に落ちなかつた。越前勢が攻めかけると、さしも要害堅固の城も難なく落ちた。これを秀頼卿の生母淀君が非常に恨んだ。それが妄念となつて出たのであらうといふ。
袖無
福井藩の二代目の殿様に一伯様といふのがあつた。大阪の陣に大いに奮闘したけれど恩賞がなかつたといふので、それから後は藩の政治にも精を出さず、権臣も相争つて、藩の政治は紊れて来た。一伯様の侍女に一人美しい一国といふ女があつた。この一国女はかつて只の一度も笑つたことがなかつた。只姙み女の腹を切つたのを見たとき、にこりと笑つた。殿様はその笑顔を見たさに妊婦を探させては連れて来て殺した。其の為に妊婦は見つけだされない様に家の外へは出ずに引込んでいた。この頃から民間には袖無羽織が流行し出した。それは妊婦が袖無を着ると腹の大きいのを少しでもかくすことが出来るからであつたといふ。
福井(城町)
今の福井県庁は元福井城の本丸跡にある。この本丸跡に一つの古い井戸がある。これが福井と呼ばれた井戸で、福井の名はこの井戸の名から起つた。この井戸はいくら水を汲み出しても一定量より減じない。これは城中の水の手として最も重要なもので、水源は芝原用水にとつてある。それで芝原用水の水を涸らさねばこの井戸の水は涸れないやうに築城したのであるといふ。
百間濠の河童(城町)
福井城中から退出して来た士族某が或る夕方淋しい百間濠(ひゃくけんぼり)傍を通ると、赤子を抱いた妙齢の美しい女が「暫くこの子を抱いて下さい。」と頼んだ。士族某はいぶかしみながらも赤子を抱いてやると、もやつとした鳥の羽らしい感覚がした。彼はすぐに思ひ当る事があつた。鴨だなーと。鴨を獲るしかけをして置くと、かかつた筈なのに鴨が盗まれてしまつているのは河童がとるとかいふ噂があつたからである。
鴨に違ひないと直感した某は、それを抱いてどんどん我が家へかけ戻つた。見ると間違ひなく鴨であつた。其の後数日たつて又同様な事があつたので、しめたつとばかり又喜んで家に帰つて見ると、今度はまんまとだまされた。かかへてかへつたのは猫の屍であつた。或日のこと別の人が百間濠の横を通ると、話に聞いた通りの女が出てきたので、やにはに大声でどなりつけると、ドブンと水音高くお濠の中へとび込んでしまつた。
源六屋敷の河童
今の知事官舎の所は、昔水野源六といふ士族の屋敷であつた。源六の妻女が或る夜厠(かわや)へ行くと、何だか気味の悪い手で臀部を撫でるものがあるので、大へん驚いて其の事を主人に話した。源六はさあらぬ体で厠へ行つて見ると妻女の時と同様な事があつたので、矢庭に怪物の手を捉へてぶつつり斬取つてしまつた。明に照らして見るとそれは紛れもせぬ獣の手であつた。
其の夜源六が眠つていると、夢の中に一匹の河童が現れて、「私は前の淨水に年久しくすむ河童ですが、ふとした事から度々悪戯をして相済みませんでした。何卒私の手を返して下さい。返して下さればお禮として、今後御当家へ御来客のある場合は、客の数だけのお魚を客の来られる以前に必らず差し上げる事。水難除けのお礼を伝授する事。この二つを確とお約束致しますから」といふ。それで手を返へしてやると、翌日からはまことに河童の約束通りになつた。
源六の一家は喜んでいたが、或る時ここの女中の一人が悪戯で、河童へ返すべき魚の血を一枚匿(かく)してしまつた。それ以来魚の方だけの利益はさつぱり無くなつたが、水難除けのお禮は、水野家が絶えて笠川氏の屋敷となり御一新に至るまでも其のままくれたいふ事である。
因(ちなみ)に、知事官舎横手の川の分岐點は昔は渦を巻いて相当深く又水質も他より勝れたので茶人からは黄金水と賞味された。
鼻缺地蔵(清川下町)
寛永の頃とか、今の清川町のあたりは誰一人として住むものもない草原であつた。その草原に埋もれて一つの地蔵様が寂しく立つていらてた。今しも使からの帰りらしい風呂敷包みを下げた一人の女中が、この地蔵様の前を通りかかつた。
「まあ、こんな所にお地蔵様が、もつたいない」。と、誰一人お参りする人もないこのお地蔵様に、辺りの草花を手折つて包の中の少しばかりの食物と一緒にお供えした。そして一生懸命に何事をかお祈りした。これから彼女は買つて来たものや珍しいものがあれば必ず少しづつお初を地蔵様に供へ、毎日照つても曇つてもお参りすることはかかす事は無かつた。
此の女中の主人は武士で大層短気な人であつた。或る時彼女に「お前はいつもわたしに端の?けた余りものばかり食べさせる。そんな不屈者はこうしてくれる」。と、やにはに腰の刀を抜いて無慈悲にも彼女の鼻をそぎとつた。女中は大層歎き悲しみながら、手をあげてわつとばかり鼻を押へた。不思議や鼻はもとのままに具はつてをり、疵さへもついていない。主人の掌には血のしたたる鼻先が握られている。
余にも奇怪な出来事に主人は怖気付き、女中に「これには何か仔細があるに違ひない」と詰問するので彼女は心静かに「私には日頃から信心してまつつているお地蔵様が御座います」。と、これまでの事ををすつかり話した。主人は驚いて」そのまま草原の地蔵様にかけつけて、おそるおそる御面相を窺ふと果してお鼻が?けて坐した。地蔵様が女中の身代りになられたのである。遠近の人々はこの奇瑞霊験を聞き伝へて参詣人が市をなし、これからはこのお地蔵様を鼻?地蔵(はなかけじぞう)といふ様になつた。
猫塚(寛永上町)
昔、福井の大名小路(現今のメソデスト教会の辺)に、川澄角平興勝(かわすみかくべいおぎかつ)といふ三百石程の士分が居た。或る時ふと見ると自分の傍に妻女が二人いる。顔をいひ姿といひ全く同じで、どちらが本当の妻女なのか見分がつかない。一方は何かの変化に相違ないと思ふのだが、どうしても正体が分らぬので困り果てた興勝は之は神佛のお力にすがるより他に道はないと、ク国奥州の産土神(うぶすながみ)なる袋羽(ほろは)明神の御分霊を勸請し、変化の分明するやう一心不乱に祈願した。
或る夕方興勝は涼みがてら晩酌をやつている時、二人の妻も傍にいたが蠅が一匹とんで来て一人の妻の耳に止つた。何気なく見ていると彼女は易々と耳を動かして、手を用いずに蠅を追つたものである。興勝はさてこそと心付き、次の間から矢を放つて首尾よく変化の方の妻を射殺あいてしまつた。正体はと見るとそれは川澄方に年久しく飼はれていた猫であつた。現今、神明神社境内に本殿に、向つて右の方に猫の絵馬をかけた猫塚さんと呼ばれている末社がある。これはこの川澄家から袋羽明神の御分霊に怪猫の亡霊を併せて祀つたもので、子供の夜泣きを止めるのに霊験があるといふので、若き母性の信仰が厚くまた花柳界の人々を猫といふところからこの方面の人々の参詣も多い。之等の人々は祈願満願の折には必ず猫の絵馬を奉納するのが以前からの習はしである。
狛伊勢守の奥方(佐佳枝中町)
初代狛伊勢守(こまいせのかみ)は藤原孝澄(たかすみ)といひ、福井第一代の藩主松平秀康公の越前入国と共に福井に来た。福井藩の執政を勤めた人で萬治二年二月九日に十九歳で逝去した。元の大名町今佐佳枝廼社大鳥居前のあたりを西に裏馬場へ出る一帯を「狛ノ内」と称へているのは狛伊勢守の代々の邸宅のあつたところである。
伊勢守は剛健を以て名高かつた人であるが、その奥方はまた夫に劣らぬ烈婦であつた。或る夜奥方がうとうと眠つていると寝室の間近に怪しい物音が聞えて来た。さてはと奥方は驚き怪しんで目をみはつた。その時であつた。黒布で頭を包んだ数人が各々抜身の刀を提げて、つかつかと寝室の奥方の前に立ちふさがつた。アツと驚きの声をあげるところであつたが、さすがに日頃修練の奥方は咽喉元に呑みこんで静かにほほ笑んだ。その落付沸つた振舞には少しも取乱したところがない。黒装束の強盗も度肝を抜かれた。
やがて黒装束の一人は「有金を皆出せ、出さないとその儘には置かない」。とおきまりの文句を並べたが、どことなく其の声には慄えているところがあつた「左様で御座りますか、それにいたしましては生?主人伊勢守は不在で・・・・・・」。と、奥方は平然として答へた。「な何、ここは伊勢守のお宅?」強盗の一人が驚いて逃げ腰になると後のものもバタバタと庭前へ逃げ出した。
奥方は矢庭に鴨居の上の薙刀を小脇にひこんで追ひかけ風車の如く揮つて、今や塀を乗越して逃げのびる強盗の最後の一人の片足を塀の中へ美事に切り落としてしまつた。
奥方は其のまま寝室に帰つて何事も無かつた様にぐつすりと寝込んでしまつた。やがて主人伊勢守が戻つて来た。見ると塀の内には片足が落ちている、血に塗れた薙刀がある。何事か大事が起つたのだらうと驚いて寝室に来ると奥方は前後も知らず寝ているのでさすがの伊勢守もその大胆さに二度驚かされたといふ。
伊勢守の墓は伊勢守が創立した川上町の通安寺に残つている。
お鍋小路(佐佳枝下町)
福井警察署の前を東へ少し行つたところで北へ入る小路がある。この小路を俗に「お鍋小路」といつている。ここは以前には日が暮れたら人一人も通らないといふ淋しいところであつた。この小路は町奉行の役宅と波々伯部(ははかべ)邸との境であつたといふ。波々伯部邸のお上女中にお鍋といふのがあつた。或る夜お鍋は奥方の御用で町へ櫛を買ひに出たが、それきり帰つて来なかつた。
波々伯部邸では色々な噂をした。その中でお鍋が隠し男と駆落したといふのが有力であつた。それは、その頃お鍋には人知れず胸に秘めた愛としの男があつたのを邸の人々に感附かれていたからである。
その夜お鍋は町で奥方の櫛を買ひ求めてお邸へ帰つて来た。その頃はもうだいぶ夜が更けていた。邸の近くまで来るとそこに彼女が日頃胸に秘めている愛としの男が彼女の帰りを待ちわびているのに出逢つた。愛としの男といふのは今は神明宮に近い壽福院の小姓を勤めたものであるといふ。二人は暗い淋しい邸街で心ゆくまで語り合つた。やがてわかれ難い思をしのんで二人は西と東に別れた。お邸へ帰つたお鍋はハツと驚いて胸を押へて真青になつて立すくんでしまつた。奥方の言付けで買つて来たお櫛がどうした事か見当らないのである。彼女は直に外に出て東の空が白く明るくなるまであちらこちら暗い地面を手探りに探したが遂に見付からなかつた。その時からお鍋は到々邸へは帰らず半月もたつてから程近い濠へ哀れな死体となつて浮き上がつた。その櫛は愛とし男と立話をしている時男がいたづらに抜き取つたのであつた。
その頃藩中では鴨猟がはやつた。真夜中に蓑笠をつけた人々が此の街を通ると真つ暗な闇の中からどこからともなくお鍋の哀れな姿が現はれて「旦那さんお櫛を下さい」と細い手を出すことが毎晩のようであつた。お鍋と愛としかつた男も此処を通つて、彼女の亡霊に出逢つた。そこでお鍋の死んだわけも始めてわかつた。これはすまない事をしたと翌晩お櫛を持つて亡霊に渡してやつた。それからはお鍋小路にお鍋の幽霊は出なくなつたと言ふ。
一国女の墓(浪花下町)
浪花下町の一乗寺に一国女の墓といふのがある。一国女は福井第二代の藩主忠直卿の妾であつた。卿が大阪よりの帰りに茶店の女を伴れて帰つて妾としたと言はれ確な身許を知つているものはない。美しい事は他に比へるものがないので一国女の名が附けられたのであるといふ。
一国女はかつて笑つたことはないが孕み女の腹を切つたのを見るとにつこり笑ふといふので、忠直卿は孕み女を探し出しては之を切つたといふ乱行は、實は悉くこの一国女の指金によるのであると。しかし忠直卿の乱行は幕府の忌諱に触れて遂に福井から九州の豊後へ遷されることになつた。
忠直卿がいよいよ豊後へ出立するといふ日である。一国女も豊後へ伴をさせてくれと願つた。こうした幕府のお叱りを受けるのも此の女のためであつた。寛に?い女である。しかしまた可愛い女でもある。それかといつて豊後へつれて行くことは勿論公儀が許さなつた。あれやこれやで忠直卿の心の千々に思ひ悩むのであつた。
やがて刻限が移つて思出多い福井城に別れを告げる時は来た。淋しい行列が通用門から城下へ出た。忠直卿の乗物の次には一国女の籠が続いた。その時前の乗物が念に止つたと思ふと忠直卿が乗物から踊り出して一国女の籠に近づいた。見る間に一国女は突刺されてしまつた。かくして一国女は忠直卿の手によつて成敗されたのである。「死骸は取捨てい」の一言をのこして行列は福井城下をはなれていつた。
一国女の死骸は一乗寺の門前に捨てられてあつたのを同寺の和尚がこれを葬り「法名を理性院眞如観月大姉」と與へたといふ。
成願寺の尊像(照手下町)
成願寺(じやうぐわんじ)の成覚坊(じやうがくばう)は大層信心の厚い坊さんで日夜佛事を怠らず常に阿弥陀様の尊像を受けたいと思つていた。或る日成覚坊が道を歩いていると見なれない童子が現はれて、坊に「あなたがかねがね求めていられる尊像は明日必ず手に入るでせう」といふ。不思議に思つて「一体貴朗は誰ですか」ときくと「我は白山妙理(めうり)権現である」と答へてそのまま何処かへ姿を消してしまつた。
不思議なこともあるのだと、翌日は成覚坊は沐浴して尊像が来られろのを待つていた。やがて一人の老人が現れて立派な尊像を持つて来た。坊はこれこそ昨日の童子が告げた尊像であるとて大事にあがめ奉つた。
其の後この成願寺はしばしば災害にかかり何時の間にかこのの尊像も行方不明になつてしまつた。寺も御本尊がないといふので永年ほつて置いたが、空晴上人(くうせいしやうにん)が住職のとき。どうかしてもとの御尊像を取戻したいものであると心膽を砕いていた。或る日のこと一人のつづれを纒つた木こりが訪ねてきて「この寺が度々災害にかかつたとき尊像を失つてはならいやうにと自分の所にかくしてある」と告げた。上人は意外のことに驚いて「あなたはどこに居られますか」と聞くと「越智の麓阿弥陀佛村の者である」といて立ち去つてしまつた。日頃の苦心が報いられる日が来たと上人は大層喜んで供を連れて彼の村を訪ねた。しかし木こりの姿はどうしても見付からないので非常にがつかりしてしまつた。丁度其の時俄かに大地が震動してあたりにあつた多くの佛像は倒れてしまつた。しかし一つだけは依然としてもとのままであつたので、能く見るとこれこそ聖徳太子御作のかねてより求めていた尊像である。左の肩から膝にかけて「光明遍照大方世界念衆生攝取不捨」、右の肩から膝にかけて「其佛本願力聞名欲往生皆悉到彼国自致不退轉」の太子眞筆の文字が刻んである。上人は大層喜んでこれを持ち帰つて本尊として崇め奉つたいふ。
牛像堂(湊上町)
湊上町の八幡神社の境内に牛像堂(ぎうざうだう)といつて牛の彫刻が一つ祀り込まれたのがある。此の牛には両眼と前左脚の下半分がない。この彫刻については次の様な伝説がある。
むかし、福井の町に噂がたつた。毎夜どこからか大きな牛が現れて街々をうろついて歩いて八百屋や果物屋の店頭を散々に食ひ荒してあるくといふのである。年の若い元気な侍たりは此の牛を取り押へてやらうとあせつて見たが誰もその正体をさへ見届けることが出来なかつた。附近の牛には悉く禁足を命じて見たが、矢張り不思議な牛の被害はやまなかつた。
ところが或夜、ある男がとうとうその不思議な牛の後をつけて其の正体を確かめるとが出来た。その牛といふのは京町の小島とかいふ薬屋の前まで後をつけて行つた時姿が見えなくなつた。小島といふ薬屋は對島藩の免許の干牛丸を売つている店であつた。その店の屋根には左甚五郎の彫つたといふ牛の看板が揚げられてあつた。その看板の牛が夜な夜な街へ出たのであると。小島家では早速物識りの人の教えを受けたら、牛の眼を抜きとつたらよいといふこであつた。やがて干牛丸の看板は取り下ろされて牛の二つの眼玉は抜かれてしまつた。それからは毎夜怪しい牛が街を騒がすことは無くなつてしまつた。この小島の干牛丸の看板が八幡神社の境内に祀り込まれたのが牛像堂であるといふ。
九十九橋の人柱
北ノ庄の城主柴田勝家は、天正年間足羽川に石と木の架け分けの橋を造らせた。北半分は木材で、南半分は石材であつた。之は戦国時代のこととしてまさかの時には敵を渡らせない為に木材の方を落とすつもりであつた。川の水は丁度半分にしか流れなかつたからである。さて此の時、石材を全部調達したのが勘助といふ石工の棟梁であつた。彼は足羽山登り口(五嶽楼)に住んでいた。此の辺一帯を石場と呼ぶのは勘助などの石切場や、石置場であつた所を、俗に石場と呼んだのがいつしか地名となつたのであるといふ。勘助は此の大きな仕事をいつかつて、萬事手落のない様に懸命になつて働いたのだが、一つ大変こまつたことは支柱となるべき石材が一本どうしても足りないことである。もう一本必要な長さの石を切り出す事が出来ない。つぎ足す事は許されない。勘助は非常に悲しみ案じているうちに期限は追々迫つて来る。がどうすることも出来ない。いよいよ明日といふ時、我が子の一大事を見るに見かねた母親は、美しくも悲壮な決心を語つた。「柱一本足りないために、お前の男は立たず命さへも案じられる。私はどうせ老ひ先短い命だから人柱となつて大橋を守らう。幸平素から死んだら入る様に石棺が造つてあるのだから、それを台に柱を立ててくれ、私の一心で必らずゆるぎはあるまいから」。と。勘助はどんなに苦しかつただらう。然し公の大事にはかえられないので涙ながらに、母の棺を土台として川底の土深く生きながら埋もれた母の冥福を祈りつつ工事に専念した。南の方から数へて六本目の柱がそれであつた。勝家は此の母親を相生町の西光寺(勝家の菩提所)へ厚く葬つた。相生町の岡西光寺ではこの様な因縁で舊藩時代のある頃まで、毎年月日を定めて河原に出で、この柱をめぐつて供養の念佛を唱へたとも伝へられている。此の柱は享保十二年の地震には折れたため取換へられ、更に明治四十二年の大橋架替には石材の部分全部と共にこの柱も取除かれてしまつた。現今は柴田神社に無盡燈として柱の姿のまま建築され、表に「福井大橋係柴田公創設以半杠半明治己酉改築因請県庁移舊橋石柱作燈為記念当社々掌福岡徳次朗謹書」裏に「享保十二年」と割字の見えるのがそれである。
九十九橋人柱の怨霊
福井藩の中で最も蠻勇を伝へられたのは俗ににいふ毛矢士(けやさむらひ)の一派で、すね者と奇行とで近辺に評判であつた。或夜更け草木も眠る丑満(うしみつ)の頃眞黒の暗の中を醉つ沸つた毛矢士の一團が今しも九十九橋に差しかかつた。もとより足羽川の両岸には灯の影さへ一つ見えず暗い空からはボツリボツリと雨さへ落ちて来て、何となく気味の悪い夜であつた。此の橋にさしかかつたさすがの毛矢士もあたりの様子に酒の醉もどこへやら、腹の底からぞくぞく寒気が催しさう、只一團となつて南の方へ歩んでいた。其の時先頭に立つていた一人が何やら物凄い奇声を挙げたかと思ふとその場にぶつ倒れてしまつた。それつと一同は無我夢中後をも見ずに逃げ戻つてしまつた。橋の眞中にとてもきれいな女が傘をさし、青白い焔を背に負うてニタリと笑つたその物凄さに思筈奇声を挙げ正気を失つて倒れてしまつたのであるとは後で分つた。こんな噂が藩中にひろがるとそれからといふものは、我も我もとその正体を見届けてやらうと探検に出掛けたが誰も彼も橋の眞中でぶつ倒れてしまふといふ有様であつた。その頃町の人々の間にまた噂がたつた。九十九橋は架替毎に橋畔にある荒木、駒屋の両家が渡り初め式をするのが例になつているが、或る年の洪水に木橋の方が流されたので工事にかかつたが、工事半で何度も流失の厄にあつた。それで両家から悪神の怒りを鎭める為に橋抗の下へ人間を生理にしたから人柱の怨霊が出るのであると。こんなことで夜更けになると九十九橋を通る人が無いかつたといふ。
柴田勝家の亡霊
天正十一年四月二十四日、この日は賤ヶ岳の敗戦から脱がれて帰城した柴田勝家最期の日である。柴田神社のお祭は此の日に行はれるが、以前は神社といつても舊鳩の門内杉田六太夫屋敷内の一隅に苔むした石祠とこれを包んだ森とがあつたのでいかにも物凄く拜まれた。
明治の一新までは、毎年其の日の夜に入り藩公の代参が立ち、杉田屋敷内から石祠までの道筋は鯨幕を張つて人目を蔽はれた。それのみでなくその夜は当の杉田屋敷をはじめ隣屋敷もその隣屋敷も門を打ち雨戸を閉して決して表や外を見ないことに愼しんだ。それは二十四日の夜には首無し馬に跨つた柴田勝家公の亡霊が通られ、これを一目でも見たものは必ずその年のうちに死ぬといはれ、禁を犯した隣屋敷の仲間や刻限を間違へた朝市行きの肴屋が亡霊に睨まれて案の定その年に死んだといふ寛例も口から口へ上されて居る。
代参の立つ夜の九十九橋から本町を経て佐久良御門を入り鉄門を通り下馬御門内へかけての町筋、屋敷筋も悉く大戸を卸し門を打つたことも杉田屋敷附近と同じことであつたいふ。
漆ヶ淵(豊島中町)
吉野川(勝見川)は元観音町を流れ芦田屋敷附近で足羽川と合流していた。むかし此の川の流れた今の下町附近は漆ヶ淵といつて一帯の水溜りであつた。
此のあたりに與三次(よさじ)といふものが住んでいた。與三次は此の漆ヶ淵の魚を釣つて生活をしていた。或る日のこと例の通り魚を釣つていたが、どうしたことか一尾も釣れずとうとう午後になつてしまつた。あまりの退屈さに彼はうとうとと居眠りをした。その時
「今おまへにたくさんの獲物をあたへるからそれを資本にして商売を始めてこれからはこの淵で釣りをしないやうに」。と告げるものがある。それは美しい姿をした女神のお声であつた。
はつと思つた與三次が目を覚ますと居眠りしていたのに気がついた。女神の姿はもうなかつた。まもなく夕立がやつて来たがそれまで矢張り一尾も釣れない。「今日は駄目かなー」。と帰らうと道具をしまつにかかつたが、ふと夢にあらはれた女神の言葉を思ひ出した。彼はもう暫く居らうといふ気になつた。
其の時である。水面には白い腹を見せた無数の魚が波に漂ふている。與三次は非常に喜んで、これこそ女神の賜だとそれを皆拾ひ挙げた。後になつてこの漆ヶ淵には殺生禁断(せつしやうきんだん)の札が立つていた。それは與三次が建てたのであるといふ。
少年の仇討(手寄下町)
勝見の乗国寺(じようこくじ)に「圓花頓入居士」と記された墓がある。この居士(こじ)の俗名を鷺谷段之丞(さぎだにだんのじょよう)といふ。段之丞の父治朗右衛門(ぢらうえもん)はわけあつて土屋権之丞(つちやごんのじよう)のために討たれた。段之丞は十六歳で家僕をつれて仇討の旅に出た。彼は道中も土屋の姿が見えないかと心を配りながら歩み歩んで江戸に入つた。さすがに江戸は広い。仇の土屋がこの江戸に居るか、居るとしても、どこに居るのか探すのは容易でなかつた。今しも段之丞がさしかかつたのは神田の乗物町である。眞晝間の事とて往来の人も中々多い。はつと思つた虚無僧姿(こむそうすがた)の段之丞は擦れ違つた巌丈な武士を呼びとめてはつたと睨めつけた。「もうしそれなる御人、暫らく待たせられい」。更に彼は浴せかける様に「土屋権之丞ではないかつと尋常に名乗られたい」。といて錫杖を捻り光々たる三尺の秋水を引抜いて、さつと沸つた。余り突然のことに件(くだん)の武士はいささか狼狽(らいばい)した様であつたが、さすがに虚無僧の刀の下に身をかはしてサツト刀を抜いで身構へして「卑怯だ、何者だ、名乗れ。」と叫んだ。「おー土屋に相違あるまい。身共は父を打たれた鷺谷段之丞であるぞ。」白刃は忽ちからみあつたがその瞬間土屋と呼ばれた件の武士は地響き立ててどうつと倒れてしまつた「やれやれ、これで辛苦三年、本懐を遂げることが出来た。」と鷺谷が頼みたところには、満面に喜びを湛えた家僕が立つていた。「若様御目度う御座います」と寄つて来た家僕はもう嬉し泣きに泣いている。黒山のように取巻いていた人々が驚いたのは虚無僧姿の鷺谷が天蓋(てんがい)を取つたときであつた。鬼のやうな荒武者を斬つたのはこの眉目秀麗(びもくしうれい)の美少年であつたかと。その後段之丞は福井に帰り藩公に召されたが、辭して仕へず出家となつて一生を終へたといふ。
北向観音(吉野上町)
福井市東部の旭橋を東へ渡つて南へ進むと間もなく北向(きたむき)観音と呼ばれている御堂がある。むかし、或漁夫が吉野川へ魚をとりに行くのを仕事にしていた。この日も例の通り出かけて行つて網を打つたが一尾もとれない。再三打つている中に何かしら引つかかつて来た。とりあげて見てみるとまづい観音様の像であつた。つまらないと思つて上の方へ捨ててしまつた。今度は少し下に位置を網を打つた。すると又像がかかつた。変だなーと思ひながら川に捨てて、網を入れると今度もかかつて来た。再三の事に漁夫は魚をとるのを止めてその像を家に持帰つてまつるつた。その夜のことであつた。漁夫の枕元に観音像があらはれて「自分を祀つたならばきつと近い中によい事があるであらう。」とお告げになつた。漁夫はそんなにあらたかな観音像であつたかと、小さな御堂を建てて丁寧にお祀りした。それから幾日か後のことであつた。大雨が降つて吉野川は大洪水になつた。此の時附近の小さな子供が誤つて川の中に陷つてしまつた。とても助かる見込みはないと親達もあきらめていたが、この漁夫の働きによつて不思議にも子供の命は助かつた。漁夫は固より人々はこれは観音像のお陰であるとて、この観音像を信仰する様になつた。後に堂を建て直して南の方を向けたが、いつの間にか観音像は北向になつていた。それから後の漁夫の夢にも北向きにしてほしいといふお告げがあつたので堂を北向きにして祀つたので北向観音といふ様になつたといふ。
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